百年たっても分かち合えない
オマケに一本つけとくよ、と店主の青年が言って、グエンの紙袋は1本分のワインの重量が足されることになった。正直いって、余計な重さだ。荷物の中身は完全に計算されていた調和の一つだったから。けれど、自分を同年代と疑っていない若者が、常連客のグエンに対して「お互い舐められないように頑張ろうぜ」と声をかけてくれるような気づかいを、無碍にすることができなかった。実際、この見た目だけで舐めてくるような輩はむしろかっこうのカモだということも、おそらく彼にはずっと言えないだろう。当たり前のコミュニケーションの中にある常識的な気づかいが、既になんだか懐かしくてある意味今の人生には物珍しい。手渡されるそれを、駄菓子のような気分で、受け取ってしまう。
手で運ぶのに、限界の重量を少しオーバーした荷物は、長い階段でグエンの腕を徐々に痛めつけた。素直に受け取った自分が恨めしく思えるほど、そのアパートへの階段は長い。
一番はじめに彼らと住んだあの夢のような海辺の部屋だって、長い階段の先にあった。けれど今の彼がいる部屋はそれとはまるで対照的な街の外れの山のふもとで、捨てられた廃墟のような建物のすぐ裏には、薄暗い森が湿度の高い空気を送り込んでくるような場所だった。だから階段を上る足取りがまるで違う。
部屋の入口のロウソク立ては欠けており、既に仕事をしていない。ドアノブのノッカーも、黄土色への変色してしまって、触る気にもならない。昔は閑静な住宅として使用されていたのだろうが、今では見る影もない廃墟同然の部屋のドアを、教わった呪文で開けて、グエンは薄暗い室内に声をかけた。
「おい、供給だぞ」
カーテンの半分以上が破れているせいで、部屋の中のどこにあの魔法使いがいるのかだいたい見当がつくのは有難い。今日は床だった。魔法陣や落書きまみれの酷く汚れた床に、うずくまるようにディディエは転がっていた。画家のパレットだってもう少しはきれいだろう。あるいは、もっと、意味のある汚れ方をしている。この部屋の床は、過程でも、結果でもなく、ただの咆哮そのもののような荒れ果て具合だ。
「おい」
グエンがカーテンを開けながら、床のディディエを足で揺さぶると、まだ死体になりきれなかった戦場の兵士のような仕草で、彼はのそりと身体を起こした。
「…………プリマ・マテリアは?」
「あ?」
「…………なにか、光ってなかったか」
「なんもなかったよ」
「……………そうか。…夢か」
そうディディエは呟いて、またぶつぶつと独り言をこぼした。このエルフが、未だに夢なんてものを見ているのが、グエンには意外だった。そんな情緒がまだ残っているのか。いや、残っているからこそ、こんな場所でこんなことをしているのか。
(むしろ、それしかないのか)
グエンが目の前にワインを置けば、ディディエはまったく疑いもせずにそれを飲んだ。隣に、今のディディエでも食べられそうな、柔らかいパンを置く。細長いパンに一筋の切れ込みがあり、そこにハムとチーズを挟んだものを、この街の人間はギュウギュウパンと呼んで食べている。その事実に対して、喜んだり悲しんだりして、大騒ぎするような連中は、この世にもういない。
そういう、当たり前のことに対して、この魔法使いはまだ何も諦めきれていない。思い出にも、駄菓子にもしない。ずっと、ただ同じところにいる。
ディディエは何も変わっていないのに、まわりだけが異常な速度で変わっていくから、まるでこの男が壊れていっているように見える。そうではないと理解するのに、グエンも少し時間がかかった。いや、今でも完全に理解できたわけではない。長命というだけでは読み解くことができない生き方の断絶を、感じざるを得ない。
ディディエがこうなって、百年は過ぎた。
この街にも、すでに20年近くいる。初めのうちこそ世界中のあちこちを飛び回って何かを必死に探していたディディエだったが、ある時を境に、移動をぴたりとやめた。資料が揃った、と本人は言ったが、そのあまりの変わりようにとうとう彼の何かが終わりかけているのかと思った。実際、ディディエの生活能力は終わりと一途をたどっていて、グエンがこうやって荷物を運ばなければ生命の継続は難しい。
ディディエがこの街にきてすぐに開発したエーテルは、この世界の常識を覆すような出来だった。そのレシピの利益だけで、ディディエの今の生活は成り立っている。それも、あと数年のことだろう。20年前には革命を起こした霊薬も、あと数年で民衆の技術が追い付く。そうしたら、ディディエはどうするつもりだろうか。
グエンの持つ先取り手形のいくつかで、このエルフを食わせていくことは可能だろう。でもそういう行いに、何か違和感を覚える自分が、グエンの中にはいる。そういう人生が、本当に正しいのか、よく分からない。
こうは、なりたくない。と、思っている自分の正しさを、どこか捨てきれずにいるのだろう。
与えたパンを咀嚼するディディエを眺め、安堵を感じながらも、そう思う。矛盾した考えだ。信念があるなら、突き放すべきなのに。
(でも、俺は、こうはなりたくない)
なりたくないからこそ、あの時、ボリスの手を取らなかった。クオートを出たときも、ニーヴロックを出たときも、そういう決意があったからだった。
そういう思いがなければ、次の一歩は踏み出せなかったと思う。その一歩を踏み出せた自分の勇気は、立派だったとも思う。だからこそ、今の自分があって、今こうやって、何も出来なくなっているディディエに、飯を食わせて生き永らえさせることだって、できている。自分のやってきたことが、グエンにはどうしても、正しかったと思えてならない。
なのに、どうしてディディエを止めることができないのか。
(俺だって、あいつらに会いたいよ)
本当は、この無念をディディエと分かち合いたかった。そういった感情が意地になって、素直にディディエの願望を、分かち合えないでいる自分は、何年、生きたって未熟だ。
230601