側にいる温度
ディディエが高熱を出した数日間、結局、夜通し看病したのはゼパルだった。
薬草を準備したり、症状を調べたりしたのはザールだったし、グエンだって、水枕を用意したり、ミルク粥を作ったりはしたのだけれど、夜になると熱が上がるディディエの側でじっと様子を窺い続け、汗を拭き水を飲ませたのは、数日間ずっとゼパルだった。
ザールはその様子にどこか慣れにも似た諦めを抱いているようで、「いつも、ああなのよ」とため息をついていた。ディディエの服を洗濯しているときだ。ザールが汚れを落とした布を、グエンが絞って紐にかけていく。部屋の中の病人と看病人がいるどんよりとした空気と違って、ベランダは嘘のように爽やかに晴れた青い空だった。桶の横にしゃがみこみ、両手でわしわしと布をこすり合わせる仕草が、どうしてだかザールによく似合っていた。この宿には大きな桶があり、それを自由に使っていい。夏場にはそこに水を貯めてディディエが浸かっている。
「やりすぎたら、お前こそ体壊すよって、言ってんのに」
「聞かないんだな」
軽く笑って相槌を打つ。聞かないんだよなぁ、とザールも重い声をこぼす。いかにも、ゼパルのやりそうな事だとグエンには思えた。
洗濯が終わって、街の景色を眺めながらコーヒーを飲んでいると、部屋からのそのそとゼパルがベランダにやってきた。肩を丸め、両腕はだらんと垂れ下がっているような姿勢で、表情は不服そうなのを隠しもしていない。ザールに部屋を追い出されたらしかった。
グエンは彼のために水を一杯用意してやったが、ゼパルはそれに礼も言わず、二段に積まれた木箱に浅く腰掛けたまま、しかしグラスは両の手で受け取って一口だけ飲んだ。上の空だ。頭の中は、ベッドの病人の事でいっぱいなのかもしれない。
ゼパルがこうも杜撰な態度で人前に出ることはまれだ。あの二人にはもっと懸命に意思疎通を図ろうとするし、もっと他人にはこうも気の抜けた態度を見せることはない。まるでここには誰もいないような顔で、まるでなんにも味のしないような水を飲んでいるゼパルは、顔つきだけがやけに幼く無防備で、そのすらりと伸びた体躯に似合っていない。
「少しは休めよ」
「今してる」
掛けた声に対して、返答は思いのほか早かった。けれどゼパルはこちらに視線をちらりとも寄越さなかった。似たようなことを、ザールに散々言われたのだろう。それにしたって、頑なだ。どうして彼はときどきどうしようもなく意固地なのだろう。
聞かないんだよなぁ、と呟いたザールの声が、グエンの中でこだまする。確かにそうなんだろう。この男はあの二人にはいつもそうだから。
しかし、そのなんでもない顔でどこでもないところを眺めているゼパルの横顔を見ていたら、『じゃあ俺なら?』という疑問がふと湧いた。
誰かのために自分には何が出来るかなんて神官のように殊勝な考えではなくて、この渦に自分を投げ入れてみたら一体どうなるのだろうかという単純な好奇心だった。平素なら思うだけで実行することはない。けれど今のグエンは、在って無いような存在で、ゼパルに話しかけているのは自分ではなく空気だ、という気持ちがどこかにあった。
そういう気分が、グエンに口を開かせた。
「無茶しても、ディディエは喜ばないよ」
ゼパルはそこで初めてグエンのほうを見た。
「なに」
言葉が短い。なのになんだか、甘えた風でもある。
「分かってないだろうと思って」
「分かってるよ、そんなん」
「だったら夜は交代で寝るべきだった」
「病気の間だけのことだろ」
会話はいつやめたってよかった。ゼパルがいちいち答えるのが、グエンには少し面白かった。
「ディディエの熱が治るって、決まってたわけじゃない」
ゼパルの眉が寄った。それを見なかったことにして、グエンは更に踏み込んだことを投げかける。
「何週間もあのままで、死んでたかもしれない。その間、ずっと寝ない気だった?」
「…………」
ゼパルは、ぐっと押し黙った。その大きく淡い宝石の色をした瞳が、沢山の事を言いたげにじっとこちらを見ていた。言ってきたのがザールだったなら、あるいはディディエ本人だったなら、ゼパルはその全てを飲み込んで、形だけでも分かったふりをするに違いなかった。
グエンはその敵意にも似た、でも根幹的に絶対それとは違う強い視線を、肌で理解することができた。
「分かるよ、『それじゃあ意味ない』って思うんだろ」
ゼパルの目は、少しだけ見開かれ、力を緩めたようだった。
「ディディエが治らないなら、お前がどれだけ健康でも意味ないんだよな」
「…………」
ゼパルは視線を逸らして、正面を向き直った。それから、一度、両手に持ったグラスに目を落とし、やけに素直に、こくりと顎だけで僅かにうなずいた。
グエンも何故か、同じようにうなずく気持ちになった。
遠くの空で、カモメのクー、クーという鳴き声が微かに聞こえてきていた。じきに日も暮れる。それ以外は静かだった。眼下にニーヴロックの町と海が広がっている。ベランダは、外でも部屋でもない、余白のような場所だ。ゆるい潮風は、真水よりも不思議と傷に染みない。
「あんまりお前の視点だけで生きるなよ。結局あいつらが悲しむぞ」
ゼパルが何か言う事はなかった。ただじっと手元の水を見ていた。その瞳には、さっきのような強い主張はもうなく、素朴な気持ちだけが残ったようだった。
「それは俺もだよ」
側にいるだけで、段々と温度や味が、混ざっていくこともある。
2024.08.16